「どうにもならぬ私が どうにかなるという 夢が破れました」
お寺の門の脇に掲示板があります。六月にはいったので法語を更新しました。
これはどなたの言葉か分かりません。私が読んだ書籍の中の一節だと思います。備忘録に書き込まれていたものです。
「自分のことが、どうにもならないなんて、そんな情けないことでどうする!」とまず一喝されそうな言葉ですが、果たして私は自分を思い通りにコントロール出来ているのでしょうか?
明治の文豪・夏目漱石がこんな言葉を残しています。
自分以外のものを頼るほどはかないものはない。
しかし、その自分ほどあてにならないものはない。 夏目漱石
私の迷いの最深部には「我執」が横たわっているといわれます。それは自分中心の考え方であり、自分最上の価値観であり、自分が正義正当であるという歪んだ思いのことです。そうした囚われの中にありながら(その中に居るがゆえに)、自分の本当の姿を見るということは自分では不可能かもしれません。
でも現実はどうでしょうか?
自分のためでありながら、どうして勉強がおろそかになったり、ダイエットが続けられなかったり、たばこが止められなかったりしているのでしょう?
自分の心でありながら、どうしていつも明るくいられないのでしょう?どうして人に意地悪をしてしまうのでしょう?どうして自分を愛せないのでしょう?
こうしたことは誰にでも身に覚えのあることだと思います。そして「今度こそがんばろう」「出来なくても諦めずにいよう」「こんな自分だからしかたがない」といいわけをしながら生きていくことになるのでしょうね。
法語には「夢が破れた」とあります。これは挫折や失敗とは違うと思います。挫折や失敗と思っているうちは、「自分で自分をコントロールすることは可能である」という世界の中にいるわけです。それが夢だったと気づいたということは、本当の自分の姿が見えたということでしょう。
夢の中でどれほど怖かったり愉快だったりしていても、覚めてしまえばそうした思いも消えてしまいます。夢が夢と分かることが夢の覚めた時であります。
私が生きてゆく上で「どうにもならぬ」事態が発生し苦悩することがありますが、そこで一度立ち止まって考えてみましょう。
「これはどうにもならぬ事態が襲ってきた」ものなのか?
「これはどうにもならぬ私が、どうにかなると思い込んでいたことが間違いだった」ことなのか?
法語の言葉を残された方は「夢が破れた」ことを悲しんでいるとは思いません。むしろ非常な喜びとして語っている言葉だと思います。
南無阿弥陀仏。