豊橋市牛川町 真宗高田派 正太寺 お念仏のお寺

まいてら お寺のある生活

未来の住職塾 本科は、お寺の永続を導く寺業計画を策定し、その実現を力強く支援します。

この夏が楽しみ。  ハスの植え替え

2018年03月09日


先日、予告通りハスの植え替えを行いました。
田んぼの土もお檀家さんから頂戴し、鉢ならぬバケツを購入し、いざ鉢の中で眠っている蓮根を揺すり起こします。
土も蓮根もひとかたまりのままグルリと天地をひっくり返し、芽を覗かせている新しい節をとりわけ、黒ずんだりしなびたものは取り出します。
土をよく練り、新しい田んぼの土も混ぜ、肥料を仕込んで、芽を付けた蓮根をそっと泥に沈めて完成です。

何年もやっているといつの間にやら人にレクチャーしながら植え替え作業をするようになっています。
面白いものですね。昨日は植え替えを祝うかのように雨が降っていました。

  


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NEW WAVE

2018年02月26日


昨日、正太寺本堂で十数名の集まりがありました。
会合の内容はお寺で開くイベントについてです。
正太寺では毎年イベントを行っておりますので、イベントが特別というわけではありません。
今回、イベントを一緒に立ち上げようと集まって下さったのが、役員でも組代表でもなく、住職・坊守から声を掛けられて「なんか知らんけど、一緒にやってあげようか」という10代から50代までのバラバラな集まりということが、正太寺としては画期的なことなのです。

これまでずっと檀家制度を基盤として、地区ごとの当番制による役員方によって行事が支えられてきましたが、その元となる檀家制度そのものが変化、希薄化しつつあります。その上でお寺がこれまで以上に魅力的になる為に、新しい組織作りは必須でした。
勿論、此まで通り檀家制度を大切にしつつ、誰もが自由意志でもって参加できるお寺の在り方を模索して行くその第一歩となったのです。
  


Posted by 正太寺 at 20:53Comments(0)

法話の鍛錬

2018年02月24日

高田本山にて「布教伝道研修講座」という堅い名称の研修会がありました。一応わたしは主催者サイドです。
真宗において「布教」といえば「法話布教」です。つまり仏法を説き、仏徳を讃嘆することで、お念仏を称える人を生み出すのです。
法話とは当然、世間話とは違い、そこに仏さまの心がこもっていなければいけません。
いえ、決して話し手が仏さまになるわけではありません。仏さまの心に触れた驚きやよろこび、そして悲しみを伝えることで、そこに仏さまの心が宿るのです。
とは言うものの、どれほど支度をして、語る練習を積んだとしても、満点というわけには参りません。
語る者と聞く者が、互いに響き合う中から成長してゆくものだと思います。

さて、先日の講座の様子です。実演者は二人。ひとり15分間の規定の中でそれぞれに練り上げた法話を僧侶や一般の混じる人たちの前で語るのです。

一人目は松山智慧氏。まだ二十代の若い僧侶です。自身は普段畜産に関わる仕事をされているということで、そうした現場で見て来たことや、感じることを織り込みながら、いのちについて、信心について立派に語ってくれました。


二人目は寺本正見氏。彼も三十代はじめという若さ。彼自身は在家から大谷派の僧侶となり、一旦僧侶の世界を離れたものの、仏法に引かれるところがあって不思議な縁とともに高田派の一員となられたという経歴を話され、その背景に強く仏さまからのお導きを感じられる法話でした。

二人とも先々が非常に楽しみな若者で嬉しい出会いでした。

講座の後半は本願寺派よりお越しいただいている花岡静人先生のお話を伺い、半日の有意義な一時を終えました。

  


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おもわぬことが、あればこそ。

2018年02月14日


「おもうように ならざることを よろこばん」〈ある念仏者のことば〉

「おもうようになる」ことが私の幸せの条件のように思い、それが「ならざる」というのは不幸であると感じることを当然と信じている私にとって、その不幸を「よろこばん」と仰る方がいることにまず驚くことですが、そこにはどのような転換、展開があったのでしょう?

世に信心深いと称される方は多くいらっしゃいますが、何をもってそのように言われるのかとみれば、お墓参りに熱心だったり、日や方角を選んだり、おみくじやお札、お守りを集めたりという場合が多いように思います。

真宗で信心深いといえば、これはご法座に足繁く通われる人、真宗のご法義に照らしながら人生を歩まれる人といった風でしょうか。
そうした方々のお話を伺うと、決して自ら発心して聴聞を始められたわけではないようです。我が子を亡くされたり、ご自身やご家族の病気やけが、大きな挫折などに際して「一体、なんのために生きているのだろう」といった根源的な問いに突き動かされるようにお寺へ足を踏み入れたといった方と何人も出会ってきました。そして聞いて聞いて聞きぬいて、この私に如来さまのご本願を気づかせんとのご催促があの苦境、逆境だったと手を合わせられるのです。

  


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鈴木敦子新作展

2018年02月04日


鈴木敦子新作展(木版画・ボールペン画・板絵) 2018年1月27日(土)~2月18日(日) 入場無料
ギャラリーサンセリテ (11:00~18:00)水曜日休廊です。 http://www.sincerite.info/

久しぶりのアートのつぶやきです。
今、ギャラリーサンセリテにて「鈴木敦子新作展」が開催されています。これまでは多版多色刷りの木版画の作品のみでしたが、今回はボールペン画、板絵という新しい手法にも取り組んでいらっしゃいます。


まずは木版画のものです。木版の作品らしく面というかシルエットの組み合わせから、空間や叙情を生み出しています。いくつもの木版を刷り重ねることで、しっとりとした画風が作り上げられており、いつもながらその緻密な作業には恐れ入ります。


版画の面白いところは、同じ版を使い、違う色で刷ることで全く別なる世界を表現することができるところです。この二つの作品も同じ版をモノトーンとカラーと、刷り分けています。並べて見ていると、目の前の二点以外に第三、第四バリエーションがあるのではないかと、期待にも似たイメージが湧いてきます。


こちらは板絵の作品です。版木に使う板にアクリル絵の具で色を塗り削ったりこすったりして深みを生み出します。板に描いた作品らしく艶と硬質感が魅力です。


最後はボールペン画です。市販のごくありふれたボールペンの「黒」一色を使い、ご覧のように淡い色から深い影のところまで綺麗なグラデーションでもって描かれています。木版画同様、緻密で正確無比な作業を積み重ねることで、このような柔らかな空間が表現できるのですね。


あと一週間あります。ぜひ。お出かけください。

そして画廊に足を踏み入れたことのない方へ一言。画廊は作品を見るところです。勿論、買うこともできますが、基本的に見に行くところです。
美術館と唯一違うところは「気に入ったらそれを購入し所有所有することができる」ということです。



  


Posted by 正太寺 at 19:55Comments(0)

大峯顯先生ご往生

2018年02月03日

1月30日


大峯顯(おおみねあきら)先生がご往生の素懐を遂げられた。
ご葬儀に駆けつけるまではしませんでしたが、一人静かに「ありがとうございました」と念じていた。

大峯顯先生を知ったのはほんの3,4年前のこと。それ以前よりご尊名は耳にしておりましたし、著書も数冊所有し、ペラペラと読みかけるまではしておりましたが、通り過ぎるようにその後は何も感じも残りもしませんでした。


それがこの『言葉の不思議』という百ページ余の薄い冊子を読んだときに、パッと目の前が明るくなったと感じるほどの衝撃を受けました。
調べると当時まだお元気に講演、法話をなさっているらしい。更に目前に奈良県で法話があるという情報を見つけ、早速聴聞に出かけていった。
遠く大阪まで名阪道を走って行ったことがずいぶん昔のように感じます。
その時の様子は以下のブログ記事でもご覧ください。
http://shotaiji.blog.so-net.ne.jp/2015-04-03

先生は「言葉」というものは、決して人間が生きてく行くための道具のようなものでは無いと仰います。
言葉は「我々がその中を出られない世界、なんと言ったらいいでしょうか、お魚にとって水みたいなものですね。我々は言葉という水の中に住んでいるんですね。言葉を離れたら人間はなくなるんです」と言っています。

道具では無い言葉なんて、実際あるのだろうかと不審に思ったりしますが、「南無阿弥陀仏」というお念仏についてこのように示してくださっています。

「我々は言葉の世界の外に出ては生きられないにもかかわらず、本当に頼るべき言葉がない世界に生きているわけです。我等はそれじゃあもう、何も支えのない虚無の上に浮いているかというと、そうじゃなくてその世界が、実は唯一つの本当の言語に支えられているのです。つまり仏が南無阿弥陀仏という言葉になって我々を支えておってくれる。これが浄土真宗の根本思想です」

大峯先生が生きていらっしゃる間に先生に出会えたことは、本当に有り難いことでしたが、私が生きている内に大峯先生の教えに出会うことができたことが、より一層ありがたいことであります。


  


Posted by 正太寺 at 15:28Comments(0)

一直線に並ぶ・皆既月食

2018年02月02日


黒地に白い汚れ?・・・
なんともお粗末な写真ですが、先日の皆既月食を撮影したものです。
予報では曇り空になりそうと危ぶんでいましたが、なんのことはない快晴の夜空でした。
なんでもスーパームーンと呼ばれる月の楕円軌道上、最も地球に接近している状態ということで確かに明るい。
それがジワジワと陰り始め、この写真は糸ほど細くなったお月様を撮ったもの。
それが見る見るうちに陰に隠れ、ボンヤリとオレンジ色に光っています。

説明するまでもなく、太陽の光を受けてできた影の中に月が入ってしまった状態です。
つまりこの時、太陽と地球と、そして私と、月が一直線に並んだということです。

冷たい北風を背中に受けながら、暫く私は首が痛くなるほど月を見上げていた。
地球の影で暗くなったほうが、球体として目に映る。手を伸ばせば手のひらにコロコロと転がり落ちてきそうだ。

この綺麗な朱い玉をこうして見上げられる機会はあと何回あるだろうかと思いをはせた。
この夏にも月食は起きるらしい。今回のような満ち欠けが観察できる月食は四年後という。
その時、いのちがあったとしても天候にも、体調にも左右されるもの。

「一期一会」と思い至る。この瞬間は、今しかない。
  


Posted by 正太寺 at 09:49Comments(0)

報恩講のご報告

2018年01月29日

27日・28日と報恩講が勤まりました。
ここ連日の冷え込みで出足が鈍るだろうと心配をしておりましたが、皆さんご体解さまなことで、大勢のお参りをいただきました。
今回は住職きっての願いでありました葛野洋明先生にお越しいただくことができました。
「なるほど・・」と唸ることしきり、二日間全五席があっという間に過ぎ去ってしまいました。

葛野先生はよくしゃべる、よく動く、表情も瞬間瞬間変化するので、写真を何枚も何枚も撮すのですが、そのほとんどがブレてしまうほど。
聞いている私たちも笑ったり、考えたり、と忙しいのですが、それが楽しいのですね。


ご満座は満堂となる盛況でした。住職としては嬉しい限りです。
二日間が終わって、安堵感、満足感、達成感とともに、次へのやる気もいっぱいです。
  


Posted by 正太寺 at 23:04Comments(0)

高田本山へ行ってみよう

2018年01月09日


今日は1月9日
三重県津市一身田の高田本山専修寺では「お七夜(おしちや)」と呼び親しまれている、親鸞聖人報恩講が始まりました。
今日から連日16日まで、朝事・お日中・お逮夜・初夜と日に四回の法要、そしてお説教が続きます。(16日のお日中で満了)
それ以外にも大講堂でのお説教や境内各所でのイベントが盛りだくさんです。
因みに私も12日(金)のお逮夜のお説教を仰せつかっております。法要は午後二時より、その法要に続いて私がお話させて頂きます。(ただ今、法話原稿を練り上げているところです。)

近くの方はお気軽に、遠くの方はせっかく高田本山にお参りされるのであれば、是非この期間にお出かけになられることをお勧めします。
  


Posted by 正太寺 at 11:37Comments(0)

謹賀新年

2018年01月06日


「通ずるの心 ほとけの世界なり 南無阿弥陀仏の世界なるかな」赤禰貞子(あかね さだこ)

遅まきながら新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いします。
元旦は朝8時より修正会が勤まり、60名を超える方々のご参詣を賜わしました。新年早々うれしい限りです。

門前の掲示板が更新されました。
この法語は赤禰貞子という方の言葉です。

赤禰貞子(あかねていこ)さんは生涯念仏に生きた方であります

明治34年‐昭和52年没。ずいぶんと昔のかたですね。

7歳より強度の喘息発作あり、以来、病苦でそして貧しい日々であったが、暁烏敏(あけがらすはや)師に出遇い、念仏の教えに生きる。

赤禰貞子さんについては、林暁宇(はやしぎょうう)師の本などから知ることができます。

それらの著書から赤禰さんという人物を訪ねてみましょう。

赤禰さん宅の隣人を訪れた某新興宗教の人が、この赤禰さんにも入会をすすめると、「私は南無阿弥陀仏で結構です。」 と答えられ、
「ナンマンダブツじゃその病気が治らんでしょうが」と云われると、「何を云うのです、病気はご利益です。」 と言下に答えたという。

林暁宇師自身、「もし赤禰貞子さんという人にお遇いできなかったら今の私はなかったでしょう」と言われた方でありました。

  


Posted by 正太寺 at 14:10Comments(0)