グリーフケアを学ぶ連続講座が名古屋で開かれています。(5/23・6/26まで)
「いのちの学校」といいます。真宗と臨済宗の若い僧侶がファシリテーター(進行役)となって学びの場を運営しています。
全12講の中で「お坊さんと死について学ぶ」という回が先月開催されました。そこで中央にいて会場からの質問などに答えてゆくという役割を仰せつかりました。
さて、「死」について何を話せばいいのだろうと数か月前からあれこれと思いを巡らしておりました。
自分なりに想定される質問事項をいくつか上げて、それに対する回答内容をいくつか書き留めたりして臨みました。
さて、当日です。どんな人が来られるのか、何人ほどやって来るのかはフタを開けてみないとわかりません。
そして20名ほど集まってくださったのですが、その七割が僧侶!という状況に私は少々焦りました。
いざ開幕。
日常において宗教を感じる場はありますか?という参加者同士の意見交換から、講師役の私にバトンが回されます。
私は以前、キリスト教信者のお宅で広いキッチンの梁に一枚のマリア様の絵(ハガキ大)が額にも入れられず留めてあり、そこで家族が日に何度か手を合わせ静かに佇む様子を見て、信仰の基本を教えられたように感じたことを紹介しました。
手を合わせる、心落ち着けて座る、お勤めをする、祈る、そうした行為にはやはり「対象」が必要でしょうと申し上げました。
これもお参りに行った先でのことですが、広島からやって来た若いご夫婦と出あいました。その奥さんは結婚されるに際し、母親から嫁入り道具の一つとして小さな厨子に収まった阿弥陀如来像を贈られたというのを聞き、正直驚いてしまったこともお話ししました。
参加者には曹洞宗や臨済宗の僧侶、そして真宗僧侶も居並びここでは自分の事を自分の言葉で話すしかないと覚悟を決め、ほとんどを自分の経験、体験の話題を紹介してあっという間に予定時間となり、何となく消化不良な思いのまま終了。
振り返ってみて、これまで私が僧侶として色々経験させていただいた事が、私をお育てくださったと改めて気づくことになりました。
南無阿弥陀仏