豊橋市牛川町 真宗高田派 正太寺 お念仏のお寺

まいてら お寺のある生活

未来の住職塾 本科は、お寺の永続を導く寺業計画を策定し、その実現を力強く支援します。

パフォーマンスにひれ伏す

2017年05月16日


先日こちらでご紹介した「上村奈々子展」開催中のギャラリーサンセリテにて特別イベントが行われた。
「ひでおサウンドパフォーマンス 無常 無音」

ギャラリーの証明は落とされ、蝋燭の灯りだけとされ、大勢の観客はじっと耳をすませて様子を伺う。
 
やがて篠笛のキンと高い響きとともに彼(ひでお)が現れた。

ゆっくり、ゆっくりと移動しながら、篠笛はやがて尺八に代わり、低い風が吹くかのような音が空間を満たす。

遠くからわらべ歌が聞こえてくる。その声は谷を渡るように大きく、小さく、背景の雪山の中から聞こえてくるかのようでもある。

フランス語のささやき、悲しげな女の歌。

カチーンと竹が割れるような音がする。

揺らめく人型、座れば岩となり、立てば林となる。

一瞬が永遠のように張り詰める。
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何年振りだろうか、こうしたパフォーマンスといわれるものを拝見するのは。
パフォーマンスには舞台やコンサートとは違った、観る者を責めてくるようなはたらきを感じる。
目の前で発声する者がいれば、その分身が私の背後に回り、「聴こえているか?」とささやいてくるようだ。
床を叩く者がいれば、その影は私の足元から巻き付いてくる。
だから私はパフォーマンスを畏れる。
こんなにも何もかも吐き出してしまえるその人を。

自分が張り巡らせた自分の殻がこんなにも固くなっていることを教えてほしくなかった。


  


Posted by 正太寺 at 11:07Comments(0)

智慧光院へ

2017年05月15日


先日の週末は津市高田本山前の智慧光院への出講でした。
このお寺の前住職(すでにご往生されています)には、私がまだ右も左も分からぬ見習い僧侶だった頃、本山で大変お世話になりました。
とにかく物知りで、本山のこと、法式作法については正に生き字引と言われるような方でした。
とても几帳面でものの扱い、進め方が常に丁寧で、いい加減なことを決してなさらず、許さず、それが当時の恭敬部(法務勤行専門の部署)の空気となっておりました。
私は畏れと共にとても尊敬し、黙ってご自分の衣を畳む仕草をじっと見入っていたりしたものです。

そんな思い出を振り返りながら智慧光院本堂でお話をさせていただき、もうあれから30年近く経っていることや、たくさんのことを教えていただいたことなどを回想しながらの二日間でした。

この度のご縁だけにとどまらず、本当にありがとうございました。
  


Posted by 正太寺 at 15:10Comments(0)

「死」について考えた

2017年05月05日



グリーフケアを学ぶ連続講座が名古屋で開かれています。(5/23・6/26まで)
「いのちの学校」といいます。真宗と臨済宗の若い僧侶がファシリテーター(進行役)となって学びの場を運営しています。

全12講の中で「お坊さんと死について学ぶ」という回が先月開催されました。そこで中央にいて会場からの質問などに答えてゆくという役割を仰せつかりました。

さて、「死」について何を話せばいいのだろうと数か月前からあれこれと思いを巡らしておりました。
自分なりに想定される質問事項をいくつか上げて、それに対する回答内容をいくつか書き留めたりして臨みました。

さて、当日です。どんな人が来られるのか、何人ほどやって来るのかはフタを開けてみないとわかりません。
そして20名ほど集まってくださったのですが、その七割が僧侶!という状況に私は少々焦りました。
いざ開幕。
日常において宗教を感じる場はありますか?という参加者同士の意見交換から、講師役の私にバトンが回されます。
私は以前、キリスト教信者のお宅で広いキッチンの梁に一枚のマリア様の絵(ハガキ大)が額にも入れられず留めてあり、そこで家族が日に何度か手を合わせ静かに佇む様子を見て、信仰の基本を教えられたように感じたことを紹介しました。
手を合わせる、心落ち着けて座る、お勤めをする、祈る、そうした行為にはやはり「対象」が必要でしょうと申し上げました。
これもお参りに行った先でのことですが、広島からやって来た若いご夫婦と出あいました。その奥さんは結婚されるに際し、母親から嫁入り道具の一つとして小さな厨子に収まった阿弥陀如来像を贈られたというのを聞き、正直驚いてしまったこともお話ししました。

参加者には曹洞宗や臨済宗の僧侶、そして真宗僧侶も居並びここでは自分の事を自分の言葉で話すしかないと覚悟を決め、ほとんどを自分の経験、体験の話題を紹介してあっという間に予定時間となり、何となく消化不良な思いのまま終了。

振り返ってみて、これまで私が僧侶として色々経験させていただいた事が、私をお育てくださったと改めて気づくことになりました。
南無阿弥陀仏
  


Posted by 正太寺 at 09:08Comments(0)

学ぶ意味

2017年05月03日


自分が何も知らないということは、少し勉強すれば誰にでもわかるはず。  福島智(東大教授)

この言葉は福島智(ふくしま さとし)という東京大学教授のものです。
この福島智という人がどういう人なのかを知ると、この言葉の意味の重みを感じていただけることでしょう。


福島智 1962年兵庫県生まれ。3歳で右目、9歳で左目を失明。18歳で失聴し、全盲ろうとなった。
視力を失い、耳も聞こえなくなるという光も音も無い世界に放り込まれた状態を、彼は「宇宙空間に独りで放り出されたような」と言っています。
その孤独感や絶望感はいかばかりか察します。
そんな時、彼の母親の機転から思わぬコミュニケーション方法が誕生します。目の不自由な人のために「点字」というものがあります。その点字を打つタイプライターには左右、3つずつのキーを両手の人差し指、中指、薬指で押さえるような仕組みになっていてます。
普段は他の人が点字をタイプライターで打ち、その打たれた点字を智さんが指で読み、その意思を知るというやり取りだったのですが、タイプライターの無いところでふと思いついた母親が智さんの手を甲を上にして差し出させたところに、自分の手を重ね、点字タイプを打つ要領で「さ と し わ か る か」と智さんの指を叩くと、それが読めたそうです。「ああ、わかるで!」と答えました。
これが後に「指点字(ゆびてんじ)」といわれるコミュニケーション方法です。

智さんは「どうして自分はこんな苦悩を経験しなくてはならないのか」と自問します。そして「理由はわからないけれど、この苦悩には何か意味があるんだ」「これは自分の将来を光らせるためにひつようなものなんだ」と考えることにしたそうです。18歳のことです。
1983年に東京都立大学に合格し、全盲ろう者として初の大学進学。金沢大学助教授を経て、2008年より東京大学教授となります。全盲ろう者として常勤の大学職員となったのは世界初だそうです。

彼は著書の中でこう語っています。
教育者には2つの陥穽(落とし穴)がつきまとっている。その一つは「自身の無知の自覚の欠如」であると。
今回紹介している文言の意味するところでありましょう。「自分が何も知らない」ということを常々自覚し忘れぬようにしなくてはいけないということです。勉強することは大事なことですが、知識を取り込むことで自分が賢くなったと勘違いしてしまうようでは、その勉強の仕方が間違っているということなのでしょう。

2つ目は「自分が子どもだった時のことをほとんど忘れてしまっている」ということ。
そして、かつて子どもだったことを、それを忘れた大人を自分たちとは異質な存在として敏感に嗅ぎ分ける能力を、子どもたちは持っていると教えています。(怖いと正直思いました。気をつけなきゃ。自分を見失ったオトナになってやしないだろうか)




  


Posted by 正太寺 at 23:14Comments(0)

上村奈々子展

2017年05月01日


上村奈々子展「時が描く」
2017年4月29日(土)~5月21日(日)


今、向山のギャラリーサンセリテで上記展覧会「上村奈々子展」が開催されています。
この案内状の作品に何か惹かれるものがあって、どうしても見ておきたいと思い出かけてきました。


会場に入ると正面にこの大きな雪山(ゲレンデ)の絵が静かに佇んでいます。そう、正にこれが冬山の景色だと頷かずにはいられません。
あのシンと冷え切った空気や、音を呑み込む大地や、頭の上を吹き抜ける風まで感じるようです。
雪山はこうして描くものだと教えられたようで「やられた感」が半端ないです。

誰も居ないのは時間が止まっているのか、むしろ長時間開けっ放しのカメラのシャッターのように動くものは掻き消えてしまったか。
この絵を眺めていると何故だか自分は独りぼっちなんだという気分になってしまうのです。


作品はほとんどモノトーンですが、描かれている世界は幅広く、作者の自在なふり幅があるからこそでしょう。

技法について
「蜜蝋版画」という方法が多く用いられています。
蜜蝋版画とは、紙の上に溶かした蜜蝋を刷毛で手早く塗り、蝋が固まったところでキリの先のようなニードルで引っ搔いて線を描きます。
次にその引っ掻いた線の上からインクを刷毛で叩き込むようにして下地の紙に色を付けます。
インクが乾いたら、蝋の上に紙を置き、熱したアイロンで押さえることで蝋は溶け下地の紙から分離されます。
跡には引っ掻いた線がインクの黒い線となって残っています。
蝋というフィルターを通した、一点物の版画といっていいでしょうか。

ギャラリーサンセリテの情報はこちら↓
http://www.sincerite.info/


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Posted by 正太寺 at 23:40Comments(0)